環境要因からしか判断できなくなってしまった人々

 環境要因からしか判断できなくなってしまった日本人

 有名俳優が自殺したときネット上では「顔もよくてお金持ちなのになんで死んだんだ」という人が続出した。私はそんな人々を見て軽く絶望した。死にたくなった。こんな人間ばかりだから自殺する人が出るんだよと怒鳴り散らしたくなった。今回は環境要因にしか目を向けられなくなった人々について語っていこうと思う。

 「悩み」の定義を定める必要があると思う

 人間だれしも多かれ少なかれ悩みを持っているだろう。でも今の日本では「悩み」の中でも大まかに二種類に分類できると思う。一つは「こんな出来事があってこんなふうにつらいと感じた」等の個人の精神的な悩み。もう一つは「お給料が少なくて生活がキツい」等の社会的問題に近いような悩み。これらをどちらも「悩み」と呼んでしまったがために苦しむ人が増えたに違いない。なぜならこれら二つの悩みは解決のためのアプローチ方法が全く違うからだ。前者は主に共感してあげるというのが大切で、お話を聞いてあげてそのつらい感情が薄れるまで、時間が解決するまで寄り添うのが大切であろう。後者はわりと明確な解決方法が存在している場合が多い。転職や副業、また生活費 の節約方法など現実的で論理的に説明できるものがほとんどだろう。

 しかしこの二つがごっちゃになってしまった。後者の悩みを相談したときに共感したりという前者のアプローチをしても大して意味はないが問題もない。一方、前者の悩みを相談したときに後者のアプローチをしてしまったらこれは大きな傷になりうる。    

日本人のラベリング癖

 ラベリングとは、人物や物事に対して「あの会社は○○だ」や、「この人は○○だ」と独自の判断基準でレッテルを張り、イメージを固定化してしまう行為である。アメリカ等の外国では小学生の時からクラスに多種多様な人種や民族がいるのが当たり前であるが日本はそうではない。島国で小さいころから異文化に触れる経験が少なく、かつ集団主義の色濃い日本では視野が狭く、似たような考えの人と共に毎日同じような時間を過ごす安定的な生活を求めた。日本人は自らに「自分は普通だ」というラベルを張って安心を得ると同時に「逸脱者」を嫌った。そして普通でない人や考えを排他的に扱う癖ができあがった。これが長年続いた結果、ラベリングはついに「幸せ」や「悩み」にすら浸食した。「高所得者は人生イージーモード」、「低所得者は人生ハードモード」、「イケメン美女は幸せ」、「ブサイクは不幸」。これらすべてが100パーセント間違っているわけではないがこれらはあくまで傾向の話である。しかしこのようにラベリングをし、人々は思考停止した。

 

   高所得者=幸せ

   イケメン=幸せ

   つらい人間≠(ノットイコール)高所得者、イケメン

   自殺=つらい人間がすること

 

というラベリングによりできあがった地獄の方程式によって思考停止してしまった人々は「なぜつらい人間ではないはずの高所得でイケメンが自殺するの?」と本気で思ってしまっているのだ。

 人を「人」として見る

この現状は正直どうしようもない。自分だって無意識に人をラベリングしているに違いない。でもなるべく、「その人」のことを見てあげたい。男で、○○出身で、年収○○万円で、とかではなくそこにいる「その人」を見てあげることができたら...少しはみんな幸せに生きられるかもしれない。