「幸せ」を目指す

     「幸せ」を目指す

 人は夢を語る。「パティシエになりたい」「お金持ちになりたい」「旅行したい」「彼女ほしい」「死にたい」。皆たくさんの夢やゴールがある。これらには共通点があって、その先には必ず「幸せになれると思うから」という言葉が省略されているということだ。意識しているかどうかは別として、おそらくほとんどの人が幸せに向かって人生を歩んでいるに違いない。

 幸せは限りなく「絶対的」に近い価値観だと思う

 私は価値観は相対的なものだと思っている。善悪というのもこの行いは善でこれは悪、というものではなく、一般常識があってそこから相対的に善い行いは善として見られ悪い行いは悪として見られる。言い換えれば悪があるから善が存在し、善があるから悪が存在する。これらは概念的なものではないということだ。しかし私が思うに「幸せ」というのはもっと絶対的なものだと考えている。なぜならすべての人間が無意識的に幸せに向かっているからである。言うなれば、幸せにむかうということは理性ではなく本能に近い行為であるということだ。

 考えることは不幸か

 こんなにも考える力を持ってしまった人間は不幸かもしれない。所詮三大欲求が満たされるだけでも幸せを感じることができるのに、さらに大きな幸せを志す。更には不幸などという感情のおまけつきだ。一日中寝てご飯を食べて生活したとしても、そんな生活をしている自分に「このままでいいのか」「これが幸せなのか」等を自分に問い続けて、ひとりでに憂鬱になる。もっと上に、もっともっと。ずっと今より上を求め続けて考え続けて、そして手に入れられない現状や自分に絶望したりもする。不幸に決まっている。

 結局行きつく先は?

 考え続けて求め続けた先には様々な答えがある。ポジティブになれる人もいるだろう。その過程が楽しかったり、手に入れられた時の達成感を求めてより頑張ることができたりする人のことだ。正直うらやましい。でも私は違った。私はダメだった、こんな前向きになれなかった。辿り着いた先は「死」であり、希死念慮や諦め、社会と自分への愚痴や怒りなどの負の感情に支配されるようになってしまった。

 まとめ

 でもこんな負の感情でさえその奥にあるのは「幸せになりたい」という気持ちだ。死んだら考えなくて済む。自分にとって考えることはつらいことだからそれを辞めれば幸せになれるだろうという期待。社会を愚痴ったり怒りをぶつけたりすることで自分が悪いことを責任転嫁したり、もしくは自分と同じ考えを持つ人を求め孤独感から解放されようとしたりしているのかもしれない。これらは結局「幸せ」にむかっているのだ。

 だから何?って話だ。自分で文を書いていて思ったのだがこの記事には問いも意見もない。でも書きながら再確認したことがある。多分私は生きることがめんどくさいのだ。あまりに浅はかで不肖なことは自覚しつつもやっぱり思う。「死にたい」。多分それが今の自分を一番に「幸せ」にすることだからかな(笑)。