鬱が治ったかもしれない件

鬱が治ったかもしれない

 最近、全然病まない。生きていても微塵もつらくない。なぜこのような状態に至ったかさっぱりわからない。死にたいですかと言われれば「どちらでも構わない」と言えるくらいには調子がいい。

原因を考えてみた

 原因を考えてみたが、さっぱりだ。でも、なんというか、いい意味ですべてを受け入れたのだと思う。以前は自分のことをすごい人間だと思っていた。昔から少し覚えはよかった。勉強してもゲームしても周りよりは少しだけ早く、少しだけ上に行けた。でもそれは大きな間違いだった。この能力が間違いというよりはその程度で人生がある程度うまくいくと思っていることが間違いだったのだ。いや、実際うまくいくと強く思っていたわけではないのだが、なんとなく、まあ俺なら大丈夫っしょみたいな謎の自分への信頼があったのだと思う。イタい。極めつけがこれらの能力に自分の努力が1ミリも介入していない点だ。努力して人より優れた成果を出したなら勘違いしても許される気がするが、ただ生まれ持ったもので周りに流されるように育ったのにも関わらずそれで自己陶酔してしまったのである。

 だがここ数年でそれは砕け散った。私は初めて自分が努力なんて一切してこなかったイタい人間だと気づいた。気づいたけど受け入れるのに長い時間と労力が必要だったんだ。不登校の原因が身体の病気だったこともあり最初は身体の病気のせいにして次は親のせい、うつ病のせい、希死念慮のせいみたいにどんどん何かにしがみついては他責を繰り返した。でも最近になってようやく踏ん切りがついたのだ。悩んでいる人には2パターンあると考えていて、ひとつ目は、周りに影響をもろに受けるタイプの人間で周りが悪かったらそのまま本人も悪くなっていくタイプ。そしてもうひとつは、一見周りが悪いように見えて「こんな環境の中にいる”自分”が○○」というようにいつだって思考の矛先が自分に向いていて状況を俯瞰的にみて判断するタイプ(自分もこれ)。こうみると後者のほうがなんだか賢そうだが実は全くもってそうではない。ただ単にこの2タイプがいるというだけだったのだ。しかし少し前までの私は、この2タイプに優劣をつけていた。後者のほうが考えている感があって知的でかっこいいので後者でありたいと思う反面、今の社会の中で幸せに生きていけるのは前者のほうなので前者に皮肉交じりの羨ましさなんかも抱いていた。まじでしょーもないプライドがあったのだ。だから「悩んでいる自分がアイデンティティ」などとほざいたこともある。

狂気で対抗

 でも最近ようやくわかった。自分はほんとうに救いのないどうしようもない人間だということに。TOEICまで3週間あったので計画を立てたのだが最初の3日間でほとんど勉強しなくなったし、ゲームだってガチでやろうと思った矢先、二連敗したら萎えてゲーム閉じるし、練りに練った自殺でさえ失敗するしもはや存在がネタだ。でもそんな生活を続けているうちに今のように悩んで病むことが消えていった。どんな自分であろうと、振り返って、”自分について”考えることをやめたんだ。良い言い方をすれば消極的虚無主義から積極的虚無主義になった。悪く言えばプライドのバケモンから無情のバケモンへと転生したのである。以前は最も嫌っていた「無敵の人」に自分がなってしまう日が来るなんて。でもそれでいいんだ。社会も自分もキモすぎた。狂気であふれた世界では、それ以上の狂気をもって生きてくのも正解だよね。

私が大嫌いな人間。

 あまり書きたくない。言語化は全然万能じゃない。思っていること、心のモヤモヤを表現するには言葉が足りなさすぎる。

嫌いなもの

 人間が嫌いだ。人は人と必ずかかわっていかなければならないがそんな人間が大嫌いなんだ。自分も含めて。

 ワールドカップで日本がクロアチアに敗れたときTwitterのトレンドに上がったのは「PK下手」というものだった。なんだよこれ。これが「日本お疲れ様でした」とかになる社会だったら、私は死にたくならずに済んだのだろうか。日本代表選手は昔から長い時間をサッカーに捧げて努力してきた人たちだろう。そして対戦相手である選手も同じようにサッカーにいろいろなものをささげてきた人に違いない。そんな彼らがぶつかり合った結果日本が負けただけなのだ。なのになぜそこら辺のモブに下手呼ばわりされなければならないのだろう。そいつらは人なのだろうか。豚か。いや、豚に失礼だ。同じ生物として扱う価値はないのかもしれない。でもそんな人たちが実際にいるんだ、しかもわりとたくさん。社会に出てこんな人たちに会ってしまったら私はどうすればいいのだろうか。まず大嫌いな人種一つ目は上記のような人の気持ちを考えられない奴らだ。

 私のクラスにはとても仲の悪い二人がいる。ある授業でたまたま私とその二人の計三人グループがくじで決まった。片方は「今日話さないわ、好きにやって」と匙を投げた。大嫌いな人種二つ目はこういうやつだ。公の場で自分の感情をむき出しにして第三者への迷惑など微塵も考えていないクソガキだ。二十歳超えてこれだ。どうせ来年クラス変わったら二度と話さないのだから嫌いでも表面上だけ取り繕ってコミュニケーション取ればよかっただけではないのか?と思うがそんな少しの思考と我慢すらできないバカだ。

ほんとにうんざりするんだ。じゃあ例えば前者の人間が大きな失敗したらざまあみろって直接いってやっていいのか?私だって腹立ったらその場で暴れればいいのか?もう少し自分がしようと思う言動行動を見直してくれよ。頼むから。

正当性、誠実さは無意味

 そんな人間たちの台頭は昔から徐々に進行してきたはずだが最近はそれを強烈に実感する。ガー〇ーとかいう国会議員にもなって海外に籠ってしょうもなくてどうでもいい暴露を重ねるやつ、待ちゆく人に学歴を聞いてバカにしていくやつら、ブレイ〇ングダウンとかいうチンピラが台本に沿って煽り合う茶番番組、コレ〇レとかいう司法という手段を使わず私情混じりの曖昧な情報で他人の人生をぶっ壊すような自称被害者さんの溜まり場、そしてそれらを面白い面白い言って妄信する人々。もうおしまいだ。情報の正当性や人間の誠実さ、倫理観なんてクソくらえだ。もう、騒いだもん勝ちで傷つけたもん勝ちなんだ。

自分が最も嫌い

もちろん上述した人間どもは大嫌いだ。でも一番嫌いなのは自分自身だ。なぜならわかっているのに行動していないからだ。うつ病になって5年を超えていろいろなことを考えて悟ったつもりだ。私はどれだけ自暴自棄になろうと不誠実にも他人に刃を向けることもできない。そしてただ結果が欲しいだけの人間なのだと。例えば難しい資格試験を取れたとしてそれが実力でなく運だったとしても喜んでしまうし、今後どこかに就職した場合それが大したところでなくとも満足してしまう。そして追いつめられると、この記事のように仏陀を気取ってべらべらと穴だらけの理論で埋め尽くす。そしてなんの努力もしない。その程度の人間なんだ、自分なんて。

 

 今回は私が嫌いな人間について書いた。でもこんな人たちが減ってほしいとは思わない。むしろ増えてもいいぐらいだ。俺がもう一度首に縄をかけたとき、この世界に微かな希望も一刻の猶予も感じないくらい、そんな人たちで埋め尽くされればいい。

 

 

自殺未遂を通して。

自殺未遂

 19歳の11月6日、本気で死のうとした。理由はいろいろあるけれど言語化したくないのでここはスルー。多分、生きるのにも死ぬのにも理由はいらない。自分は普通の人間だった。死んだら家族はそりゃ悲しむし友達も悲しむかもしれない。でもそんなのは当たり前だ。誰だって死んだら家族や友達ぐらい悲しむ。でもそれは自殺を止める理由になんてなるはずもない。私はそんな「死んだら家族が友人が悲しむ」であろう普通の人の一人でしかないから。

クズ人間

 死ねなかったことなんかよりも自分にとって一番気がかりなのは死ぬ前に良く絡んでいたネットの友達だ。私は何の言葉も残さずいきなりTwitterアカウントを削除し、同時にディスコードやLINEでの連絡も未読無視を決め込んだ。やばい。終わってる。心配の言葉に生存報告すらもしないなんて。その人たちからはどんなに嫌われても文句は言えない。今も本当に申し訳なくて気がかりなのだが今後も返すことはできないだろう。

その後

 自殺未遂をしたあとは一度大学を休み実家に帰った。母に事の次第を話した。父には詳しく話していないが何かを察して黙認してくれていた。さて、こうして生き延びてしまったわけだが、なんだか不思議な気分だ。自殺未遂の後すっきりした人や前向きになれる人も一定数いるそうだが、私にその類の感情はなかった。第二の人生を歩み始めたなんて大層な考えには微塵も至らなかった。現実は残酷だ。自分の中では壮大に思考を巡らせ今までで持ったことのない強い覚悟と意思をもってことに及び、その結果失敗して将来のことなどずっと頭を使って考えたが、時間は当たり前のように淡々と過ぎていくのだ。自殺未遂を経て何とも言えない絶望感と虚無感に包まれているときでも学校の先生から「最近授業来てないね、そろそろ単位落とすかもしれないよ」という連絡が来たり、ご飯に誘われたり。自分と周りの時間の進みが本当に同じなのかを疑った。でも、淡々と時が流れていったのだ。実家にいた間、僕は不登校だったときのことを思い出した。あの時も確か、自分は学校にいけないのにみんなは普通に通っているんだと、どんどん開く同級生との差につらくなったり劣等感で打ちひしがれたりしてたっけなと。そんな思考はもうだいぶ何年も繰り返して、考えないようにしていたのか、はたまた諦めがついたのか、理由はわからないけれどあまりつらくも感じなくなったのに、なぜか自殺未遂したあとの数日は不思議とそんな昔の感じが蘇っていた。

 

今の気持ち

 「あの時死ななくてよかった」、自殺未遂者はわりとこの言葉を言うらしい。まあどのくらいの割合かはわからないけど。でも私はそんなことを思ったことはない、むしろあの時死ねていればな、と自分の勇気のなさを悔いてしかいない。もちろん自殺未遂のあとに楽しいことはあった。二十歳の誕生日を迎え初めて飲みに行ったり、ワールドカップでスペインに勝ったりして楽しいことはいくつかあった。でもそれらの体験をした喜びよりなぜか死が恋しいのはなぜだろうか。

 「そんなもんかな」。私の今の気持ちはこれが近い。私は鬱病になってから決定論という考え方に惹かれるようになった。決定論を簡単に説明するとすべてのことはあらかじめ決定されている、我々の考えや行動も一見自由なようだがそれらも含めすべてがすでに決まっていることであるという論理だ。多分私がこの考えに惹かれたのは自分が辛くならないから、今自分がこんな人間になってしまったのが自分のせいじゃないと肯定してくれている気がしたからだろう。そんなもんなんだ。人生なんてのは。今こうして後から見返すと恥ずかしくなるような記事を書いていることも、達観したように人生を語っているところも、それに嫌気がさしている自分も、全部全部そんなもんなんだろう。何を思っても、どれだけ自分を肯定しても否定しても、そんなもんなんだ。というか、「そんなもん」じゃないと酷過ぎるだろ。俺は大した人間ではないけど、こんな惨めで生き地獄を味わうほど悪いことなんてしてない。

 

事故にでも遭わねえかなぁ、誰か殺してくれえないかなぁ、隕石落ちてこねえかなぁ。そんなことを思いながら、今日もゲームして、ご飯食べて、課題して、寝て、淡々と時間が過ぎ去っていく。

 

「幸せ」を目指す

     「幸せ」を目指す

 人は夢を語る。「パティシエになりたい」「お金持ちになりたい」「旅行したい」「彼女ほしい」「死にたい」。皆たくさんの夢やゴールがある。これらには共通点があって、その先には必ず「幸せになれると思うから」という言葉が省略されているということだ。意識しているかどうかは別として、おそらくほとんどの人が幸せに向かって人生を歩んでいるに違いない。

 幸せは限りなく「絶対的」に近い価値観だと思う

 私は価値観は相対的なものだと思っている。善悪というのもこの行いは善でこれは悪、というものではなく、一般常識があってそこから相対的に善い行いは善として見られ悪い行いは悪として見られる。言い換えれば悪があるから善が存在し、善があるから悪が存在する。これらは概念的なものではないということだ。しかし私が思うに「幸せ」というのはもっと絶対的なものだと考えている。なぜならすべての人間が無意識的に幸せに向かっているからである。言うなれば、幸せにむかうということは理性ではなく本能に近い行為であるということだ。

 考えることは不幸か

 こんなにも考える力を持ってしまった人間は不幸かもしれない。所詮三大欲求が満たされるだけでも幸せを感じることができるのに、さらに大きな幸せを志す。更には不幸などという感情のおまけつきだ。一日中寝てご飯を食べて生活したとしても、そんな生活をしている自分に「このままでいいのか」「これが幸せなのか」等を自分に問い続けて、ひとりでに憂鬱になる。もっと上に、もっともっと。ずっと今より上を求め続けて考え続けて、そして手に入れられない現状や自分に絶望したりもする。不幸に決まっている。

 結局行きつく先は?

 考え続けて求め続けた先には様々な答えがある。ポジティブになれる人もいるだろう。その過程が楽しかったり、手に入れられた時の達成感を求めてより頑張ることができたりする人のことだ。正直うらやましい。でも私は違った。私はダメだった、こんな前向きになれなかった。辿り着いた先は「死」であり、希死念慮や諦め、社会と自分への愚痴や怒りなどの負の感情に支配されるようになってしまった。

 まとめ

 でもこんな負の感情でさえその奥にあるのは「幸せになりたい」という気持ちだ。死んだら考えなくて済む。自分にとって考えることはつらいことだからそれを辞めれば幸せになれるだろうという期待。社会を愚痴ったり怒りをぶつけたりすることで自分が悪いことを責任転嫁したり、もしくは自分と同じ考えを持つ人を求め孤独感から解放されようとしたりしているのかもしれない。これらは結局「幸せ」にむかっているのだ。

 だから何?って話だ。自分で文を書いていて思ったのだがこの記事には問いも意見もない。でも書きながら再確認したことがある。多分私は生きることがめんどくさいのだ。あまりに浅はかで不肖なことは自覚しつつもやっぱり思う。「死にたい」。多分それが今の自分を一番に「幸せ」にすることだからかな(笑)。

 

環境要因からしか判断できなくなってしまった人々

 環境要因からしか判断できなくなってしまった日本人

 有名俳優が自殺したときネット上では「顔もよくてお金持ちなのになんで死んだんだ」という人が続出した。私はそんな人々を見て軽く絶望した。死にたくなった。こんな人間ばかりだから自殺する人が出るんだよと怒鳴り散らしたくなった。今回は環境要因にしか目を向けられなくなった人々について語っていこうと思う。

 「悩み」の定義を定める必要があると思う

 人間だれしも多かれ少なかれ悩みを持っているだろう。でも今の日本では「悩み」の中でも大まかに二種類に分類できると思う。一つは「こんな出来事があってこんなふうにつらいと感じた」等の個人の精神的な悩み。もう一つは「お給料が少なくて生活がキツい」等の社会的問題に近いような悩み。これらをどちらも「悩み」と呼んでしまったがために苦しむ人が増えたに違いない。なぜならこれら二つの悩みは解決のためのアプローチ方法が全く違うからだ。前者は主に共感してあげるというのが大切で、お話を聞いてあげてそのつらい感情が薄れるまで、時間が解決するまで寄り添うのが大切であろう。後者はわりと明確な解決方法が存在している場合が多い。転職や副業、また生活費 の節約方法など現実的で論理的に説明できるものがほとんどだろう。

 しかしこの二つがごっちゃになってしまった。後者の悩みを相談したときに共感したりという前者のアプローチをしても大して意味はないが問題もない。一方、前者の悩みを相談したときに後者のアプローチをしてしまったらこれは大きな傷になりうる。    

日本人のラベリング癖

 ラベリングとは、人物や物事に対して「あの会社は○○だ」や、「この人は○○だ」と独自の判断基準でレッテルを張り、イメージを固定化してしまう行為である。アメリカ等の外国では小学生の時からクラスに多種多様な人種や民族がいるのが当たり前であるが日本はそうではない。島国で小さいころから異文化に触れる経験が少なく、かつ集団主義の色濃い日本では視野が狭く、似たような考えの人と共に毎日同じような時間を過ごす安定的な生活を求めた。日本人は自らに「自分は普通だ」というラベルを張って安心を得ると同時に「逸脱者」を嫌った。そして普通でない人や考えを排他的に扱う癖ができあがった。これが長年続いた結果、ラベリングはついに「幸せ」や「悩み」にすら浸食した。「高所得者は人生イージーモード」、「低所得者は人生ハードモード」、「イケメン美女は幸せ」、「ブサイクは不幸」。これらすべてが100パーセント間違っているわけではないがこれらはあくまで傾向の話である。しかしこのようにラベリングをし、人々は思考停止した。

 

   高所得者=幸せ

   イケメン=幸せ

   つらい人間≠(ノットイコール)高所得者、イケメン

   自殺=つらい人間がすること

 

というラベリングによりできあがった地獄の方程式によって思考停止してしまった人々は「なぜつらい人間ではないはずの高所得でイケメンが自殺するの?」と本気で思ってしまっているのだ。

 人を「人」として見る

この現状は正直どうしようもない。自分だって無意識に人をラベリングしているに違いない。でもなるべく、「その人」のことを見てあげたい。男で、○○出身で、年収○○万円で、とかではなくそこにいる「その人」を見てあげることができたら...少しはみんな幸せに生きられるかもしれない。

 

 

ブログ始めます

 ブログを書くのが怖い

 今日からブログを書こうと思う。これは自分の考えを整理するためであり、また、誰かに自分の記事を読んでもらうだけでなぜか自分が認められたような気がして嬉しいから。

どこまでが自分の考えかわからない

 では早速本題に入ろうと思う。今日、唐突にブログを書こうと思い立って、最初の記事の内容は昨日友達に語った運命論についてにしようと考えた。しかしふと思った。「昨日語った自分の考えは本当に自分の考えなのだろうか」と。誰しもが小学生時代から”自分の考えを書きなさい”や”今日の○○の感想を書きなさい”という宿題を数多くこなしてきた。しかし、そこで本当に自分の考えを書いていたかといわれると私は自信をもってはい!とは言えない。

 例えば、学校の課題として”未だ日本で残っていると感じる男女差別について例を挙げてあなたの考えを述べなさい”という課題が出たとする。その答えとして「今の日本では、女性の管理職登用の少なさや広告、CMによる性的搾取、また、男性の育休取得の制限などがあると思います。これらの問題を解決するために会社ではその社内で男女の権利が平等かどうかを可視化するデジタルツールを用いたり、性を連想させる広告宣伝に関する規制を厳しくするなどの対策が必要だと思います。」と答えたとする。さて、これは自分の考えといえるだろうか。上記の男女同権のデジタルツールも昔ネット記事で見つけて「これいいかもな」と思って用いたものだしなんなら性を連想させる広告なんて想像しても全く出てこない。

 このように「共感」と「意見」という二つの境界線はあまりに曖昧過ぎる。どこまでが「共感」になってどこからが「意見」として見てもらえるのか私にはわからない。著作権などが厳しく、あらゆる作品がパクリだと激しく騒がれる世の中で「この記事では自分の思っていることを述べているだけ」なんて私は口が裂けても言えないのである。

 不安な気持ち

 今後たくさん自分の考え(ここではあえて使います)について語ったとして例えばコメントで「これってこの記事のパクリですよね(^^)」とか「この書籍と言ってること一緒ですよ」なんて言われたら泣きながら黙って記事を削除してしまいそうだ。

 自分って何ですか?

 そんなことを考えていると思うのだ。「自分って何だろう」って。みんな言う。自分自分自分自分。みんなこの言葉が大好きだ。自己紹介を振られて「○○○○(名前)、会社員、趣味は映画鑑賞です」と言った。じゃあ、会社員って自分ですか?小さい頃からサラリーマンの父の下で育ち「安定の必要性」や「将来の選択肢を広げること(習い事や大学進学等)」に重きを置いた教育や投資をしてもらった。それで実際に会社員になったとしてそれは自分なのだろうか?映画鑑賞が趣味ですってそれは自分ですか?

 みんな何かしらに属している。属していたら個人は存在しないなんてことを言うつもりはないが、今自分を構成しているアイデンティティは全て何かしらのone of themでしかないと思ってしまって自分を見失ってしまう。

 ここまで回りくどく書いたが私はずっと自分の意見というのが自分の意見かどうかわからない、そんな不安を抱えながら不特定多数に見られる可能性のあるブログを書くのが怖い。